オスカルの計画通り、国王一家は、タンプルの塔の1階までたどり着いた。
そこから先は鉄の扉だった。後ろから、見張りが、走ってくる足音も聞こえてくる。
誰もが、ここからは先に行けないと、恐怖と絶望に襲われた。
しかし、オスカルは平然と重たい鉄の扉の前に立っていた。
すると、鉄の扉が、音もなく開いた。
下から、悪臭が漂ってきた。5人が後ずさり、青ざめた。
しかし、オスカルは、全く頓着せず、
「さあ、此処から下に降ります」
不思議な事に、目上の、超目上の国王一家は、ジャルジェ准将の命令に、素直に従った。
アンドレが、先頭を行く。皆が階段に入ってしまうと、鉄の扉が、また、音も無く閉まった。
「だ・・・誰かまだ見方がいるのですか?」
アントワネットが、聞いた。
しかし、ジャルジェ准将は、企業秘密です。とだけ答えた。
一番下の、なんとか7人が立てる場所に着いた。
しんがりを務めてきた、オスカルがここで又、高貴なる人々が驚く事を言った。
此処からは、履物を脱いでいただきます。
そして、アンドレが持っている袋に入れて下さい。
証拠になる物を一つたりと残したくないのです。
マリー・テレーズが、
「だって、ここは、暗いし、臭いし、床も汚れているわ。
それに、私は芝生の上でしか、裸足で歩いた事は無いのよ」
オスカルは、丁寧に、
「それは、存じ上げています。ですが、これから、この水の中を歩いて頂かなければなりません。
そうしたらまた、芝生の上を裸足でお歩きになる事が出来ます。
靴をお履きになっていると、水が入り重くなります。また、万が一脱げた時、探す為時間を要してしまいます。苦痛でしょうが、何卒、我慢してください」
ジャルジェ准将も、子ども相手だと少々手加減気味だった。
すると、アントワネットが、率先して脱いだ。下は、コケやヘドロでヌルヌルだ。嫌な顔をしたが、声には出さなかった。
国王、エリザベートと、続いて靴を脱ぎ、アンドレが持つ麻の袋に入れていった。
子ども達も、仕方なく両親に従った。
もちろん、オスカルとアンドレも軍靴を脱ぐ。
このような長い靴に、水が入ったら、重くていざという時、動けない。
では、出発します。そんなに距離は有りませんから、ご安心ください。
アンドレが、マリー・テレーズの手を引いて、汚水の中に入って行った。ヒッと声が上がった。
ポワンと灯りが、二つ灯った。
それにも、みんなが驚いた。しかし、足の下がそれどころではないので、訪ねる余裕もなかった。
国王陛下、アントワネット、エリザベート、そして、ルイ・シャルルを抱いたオスカルが続いた。
しんがりを務めるオスカルも汚水に入った途端、げ~~~~~っと声を上げたくなった。ヌルヌルの上、何かかが足の上を下下にも通っていく。しかし、踏みしめないと、滑りそうだった。
しかも、レヴェとヴィーの灯りは、汚水の中までは、届かないかすかな物だったので、それが良かったのか、悪いのか・・・。見えない、不気味さを感じていた。
余りにも、ヌルヌルなので、いつの間にか皆、前後の者と手をつないでいた。
灯りが点滅した。アンドレは、此処が難所だと理解した。
段々と、下っていくスロープだった。
ヌルヌルの中で、足を踏ん張って、滑らないようにするのは、至難の業だった。
皆が、腰位まで浸かった。
此処までが限界だと、アンドレが手を上げて、オスカルに合図した。
オスカルが、これから順番に向こう岸にわたります。
我々が、先導しますので、どうぞ、ご安心ください。
子ども達を先に渡すのは、簡単だった。だが、それでは向こう岸で子どもだけで。心細いだろう。
2人は、渡らせる順番を考えていた。
まず、一番向こう岸に居れば、子供達も心強いだろうアントワネットを、アンドレが見事な、クロールで渡った。オスカルは、ルイ・シャルルを、背中に乗せて、首にしっかりと手を回して下さい。そう告げると、これまた、見事なバタフライで、向こう岸にたどり着いた。
それを見ていた、マリー・テレーズは、戻って来たアンドレに、
「シャルルみたいの・・・。あんなの、怖いわ」
女の子らしく、でも、本気で後退りしながら言った。
「では、ゆっくり行きましょう。その代わり、わたしの首にしっかりと腕を巻き付けていてくださいね」
アンドレは、アリエノールは勿論、オスカルとも違った、女の子に言った。
マリー・テレーズを背中に乗せると、アンドレは、すいすいと平泳ぎで、渡って行った。
エリザベス内親王も、マリー・テレーズと同じのがいいと仰って、アンドレがまた往復した。
さて、国王陛下だ。オスカルとアンドレは、やれやれと顔を見合わせた。全く、ヴェルサイユ宮殿にいた頃と、変わらない体型だった。とは言えなかった。長年の幽閉生活で、粗末な食事をしていたはずなのに、以前よりも太っていた。
ヴェルサイユにいた時は、広い宮殿をそれなりに歩いていた。しかし、幽閉されてからは、全く動かなくなった為、運動不足により、更にふくよかになっていらした。
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国王陛下の処遇を考えておく、とアンドレは言った。
しかし、実行の前日になって、ジャルジェ准将に相談した。
独りではとてもじゃないが、運ぶのは無理だ。
背の高い、国王陛下もシュノーケルを付けてくれたら、楽に行ける。
そうオスカルに提案した。
すると、オスカルは、潜水用具はアマゾンにシュノーケル、水中メガネ、フィンの3点セットがあった。
だが、2セットしか用意していない。
今からだと、間に合わないな。
ウチには、プライム会員になる余裕が無いのだ。
と、オスカルは、済まなそうに言った。
アンドレは、じゃあ、おまえのシュノーケルを、国王陛下に使ってもらえばいい。
それで解決だ。
ホッとして言った。
オスカルが、膨れた。
イヤだ!
わたしは、陛下と間接キスをするつもりはない!
間接も、直接も口づけをするのは、おまえだけだ。
アンドレは、何を言っているのか、分からなかった。
なんで、オスカルのシュノーケルを陛下にお貸しするのが・・・。
此処まで考えて、意味が分かった。
アンドレが、納得したのを見て、オスカルが言った。
おまえのを、陛下に使ってもらえばいい。
それを聞いたアンドレが、とんでもない!
おれは、男と間接キスする趣味は持ち合わせていない。
完全に、考えがストップしてしまった。
アンドレが、
「仕方がない、陛下に身体の力を抜いて貰って、ライフセーバー方式で行こう。
ダメだったら、おれが、背負うよ。水の中だ。少しは、浮力があるだろう」
それしかないと、2人は決めた。多大な不安はあったが・・・。
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ところが、アンドレが作戦を伝えると、国王陛下は、ニッコリと笑った。
そして後ろを向くと、そのまま汚水の中に、仰向けに入った。
そして、見事な背泳ぎで、難所を通過してしまった。
国王陛下の為に、あれやこれやと策を練っていた。それなのに、この展開に、オスカルとアンドレは、口をポカーンと開けたが、何だか分からない虫も飛んでいるので、慌てて閉じた。
後を追ったオスカルとアンドレが、向こう岸に着くと、国王が言った。
「たまに、ヴェルサイユの池で、泳いでいたのだよ!」
オスカルもアンドレも、脱力した。
こうして、全員が最大の難所を突破した。
皆、匂いにも慣れて、自由への道を歩いて行くと、オスカルが、小さな声で言った。
ここのマンホールから、上がります。マンホールを出た所は、我が家の裏庭です。
住宅地なので、わたしが宜しいと申し上げるまで、決してお声を出さないでください。
また、その後、わたしの家に入ります。
子ども達がいるので、見つからないよう足音も立てないようにお願いします。
それと、マンホールを出たら、申し訳ないのですが、着ていらっしゃるもの全て脱いでください。匂いもありますし、証拠を消すためです。
アンドレが、後ほど燃やしてしまいます。
先ずわたしから出ます。次に、シャルルさま、マリー・テレーズさま、アントワネットさま、エリザベートさま、最後に国王陛下の順でお願いします。
すると、国王が心配そうに、上を見上げて、あのマンホールは、随分と小さい様だが、果たして私は抜け出る事が出来るのか?
申し訳ありません。ここしかなかったのです。それに、幽閉生活で、もう少しお痩せになられているのかと思っておりました。
アンドレが、押し上げ、わたしが引き上げますから、陛下も頑張ってください。
うむ、それしか道はないようだな。
全ては、オスカル、アンドレに任せる。
宜しく頼むな!
(そう言った陛下だったが、何か言いたそうだったが、小心者のせいか、言葉を飲み込んでしまった)
オスカルとアンドレは、恭しく礼をした。
では、宜しいですか?何か、お分かりにならないことがあれば、今、おっしゃってください。
みんな、頷いた。
まず、オスカルが、ジャンプして、マンホールに両手を掛けた。そのまま懸垂をするように、上がって行くと、今度は腕を伸ばして、外の空気に触れた。
そして、そのまま、飛び出すと、体操選手さながらのD難度の着地を決めた。
オスカルにとっては、観衆がいないのが、残念だった。
こうして、4人は難なくグランディエ家の裏庭に出た。そして、身も凍るような寒い中、無言で囚人服を脱いだ。勿論、下着もだ。オスカルが、デッキプレートの下から麻袋を出してその中に入れるよう手で示した。
オスカル自身も、脱いでいく。身の凍るような寒さだった。ただでさえ寒いのに、汚水に濡れて、それが、凍りだしている様だった。
オスカルが、また、デッキプレートの下から、麻袋を出した。その中には、真っ黒なバスローブが入っている。それぞれのサイズに用意してあり、ひとりひとりに渡していった。そんな、薄いバスローブでもホッとした様子だ。
いよいよ、国王陛下だ。上背のある国王でもマンホールまでは、手が届かなかった。ジャンプをしてもらったが、10センチも飛べなかった。アンドレが、腹に手を回して持ち上げようとしたが、重かった。それよりも、手が回らない。
仕方がないので、肩車をすべく、アンドレは『失礼します』と言って、かがみ込んだ。そして、渾身の力で持ち上げた。膝が、真っ直ぐになる前に、肩の重みが楽になった。陛下が手を、マンホールにかけたようだ。
そのまま、懸垂で上がって頂きたい。アンドレは、願った。
でも、まだ重みがあったので、もう一踏ん張り立ち上がった。
囁くような声で、オスカルが腹まで出たぞ!と言った。
よし、アンドレは、望みを持って、持ち上げたが、マンホールから、差し込んで来るレヴェだか、ヴィーの灯りが全く見えなくなった。
アンドレは、絶望した。
予想通り国王は、マンホールにすっぽりと収まってしまった。
多分、もうこの状態では、支えが無くても、上にも下にも動かないだろう。
しかし、何とかして押し出さなければならない。落ちて来そうも無いので(万が一、落ちてきたら、アンドレは潰れてしまうだろう)、アンドレは、一息入れた。上で、オスカルが引っ張り上げようと、試みているようだ。他にも、女性たちが頑張っているようだった。
アンドレは、失礼します。と言って、陛下の尻を押した。
少しだけ動いた。脂肪が地上に向かって移動したようだ。
多分、陛下は今頃、瓢箪のような形になっているのだろう。
もう少し、もう少し、多分陛下はかなり、苦しいだろう。
だが、この試練を乗り越えていただかねば、自由への世界に羽ばたけないのだ。
(重いけど)
ボコン!
凄い音を立てて、陛下の身体が地上に抜けた。
近所に聞こえてしまわないかと、オスカルが心配したほどだった。
静かに、3階へと向かった。部屋の中は、明るく、暖かだった。
オスカルが、もうお話をなされても結構です。恭しく告げた。
皆、此処までの苦労を労い、笑顔がこぼれた。
部屋には、身体を洗うよう湯が用意されていた。
勿論、オスカルとアンドレも失礼して、そこで、身綺麗になった。
全て、レヴェとヴィーが用意していた。
彼等も、彼らなりに修行を積んだ様だ。
アンドレが、温かい飲み物を運んで来る。
そうすると、昇って来た階段を、引っ張り上げ、収納してしまった。
アントワネットが、それは、なんですの?心配そうに聞いた。
上に登ったら、下からは部屋がある事が分からなくなっています。
そして下からは、知っている者だけが隠してある、道具で上がる事が出来ます。
それと、子ども達は、この家に3階がある事を知りません。床も壁も堅固に作ってありますが、くれぐれも、大きな音はお立てにならないようお気をつけてお過ごしくださいませ。
特に、我が家の長女は、おしゃべりで、外で何をペラペラと話すか、母親のわたしにも想像がつかないのです。
いろいろと、お聞きになりたい事が、ございますでしょうが、今日はお疲れだと思います。どうぞ、ゆっくり休んで下さい。
とは言っても、家具はこれだけです。キチンと整えると、近所から怪しまれるので、これが精一杯でした。ご勘弁をお願いします。
それから、不安でしょうが、ここは絶対に見つかりませんから、ご安心ください。
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おはようございます。昨夜は良くお休みになれましたか?
翌朝、早い時間にオスカルがやって来た。
「ありがとう。静かだったけど、いつ、パトカーの音がするかと、ヒヤヒヤしてしまいました」
「昨夜も、お話申し上げたように、ここまでは探索には来ないです。
簡単ですが、朝食をお持ち致しました。
これから、わたしはアンドレと、革命広場に行って参ります。
先ほど、アンドレが見に行って来たのですが、処刑の準備をしているようなのです。向こうが、どの様な動きをしているのか、確かめて来ます」
オスカルの言葉に、王家の人々は固唾をのんだが、
本当の事を聞く事が出来る事にも安堵した。
アントワネットが、
「あなた達が、出掛けたら、子ども達はどうするのですか?」
母親らしく尋ねた。
「申し遅れました。実は、こちらには、わたくしの母も暮らしています。
落ち着かれたら、お目にかかって、お話しをさせて頂きたい。と申しております」
アントワネットの目が輝いた。
懐かしい人が、ここにはいる。
それだけでも、安心できた。
*******************
1793年1月21日
革命広場は、人に埋め尽くされて、身動きが取れない程だった。
早く着いたつもりの、オスカルとアンドレも、この人の多さに驚いた。
アンドレが、小声で言った。
「おい!奴ら、どうするつもりなんだ?」
オスカルも、答える事が出来ない。
「ともかく、前に行ってみよう!」
「どうやって行くのだ!この人込みじゃ無理なんじゃないか?」
「全く~、おまえは、どこまでマヌケなんだ!
わたし達には、忍者ハットリくんという、見方がいるではないか!
行くぞ!アンドレ!」
そう言うと、オスカルは、三等身になって人混みを右に左へと縦横無尽に走り抜けた。アンドレも、それに続いた。
勢いよく走り過ぎて2人は、最前列まで来てしまった。そこで、元に戻ったから、それまで最前列にいた人から、ブーブー言われたが、知らんぷりしていた。
既に、国王陛下らしき人物が、処刑台の下に立っていた。己で上着を脱いだ。
その時何か言ったようだ。
オスカルが、アンドレを見た。
アンドレも、オスカルを見た。
ここでは、人が多くて、話をする事が出来なかった。
2人とも、黙って見ていた。
その人物は、一歩一歩階段を上がった。そして、かつて、国王だった時のように、鷹揚に述べた。そして、ギロチン台に納まった。
シャルルーアンリ・サンソンが、動いた。
首が、物のようにポトリと落ちた。
群衆から、歓声が上がった。
オスカルとアンドレは、またもや、ハットリくんになって、その場を離れた。
広場をかなり離れ、人通りが少なくなると、オスカルが聞いた。
「あれは、なんだ?人間の様で、人間ではなかったようだ。
それに、革命政府は、どこまでも、陛下たちの逃走を隠したいようだな?」
それに対して、アンドレが答えた。
「あれは、3Dプロジェクションマッピングだ。
あいつら、よく短時間で、あそこまで、精密に作ったものだ。
それに、まさか処刑の前日に逃亡されたなどと、言えないのだろう。
これからどう出るかが、問題だし、面白いな!」
「おい!アンドレ!おまえ、楽しんでいるな!?で、3Dプロジェクションマッピングってなんだ?普通、建物の壁とかに、映し出されるのだろう?」
「ああ、それの立体版だ。何処から、映し出しているのか分からないが、首から、血を流している所なんか、超リアルだったな」
「ふ~ん、そんなのが、あったのか・・・世の中は進んでいるのだな。
アパルトマンに閉じ籠っていると、時代遅れになるな。
それにしても、昨夜、雨が降ってくれればよかったな!
そうすれば証拠を全て洗い流してくれたのに・・・。」
「何を言っているんだ?凄い雨だったじゃないか?
窓に叩きつける、雨音に気づいていないのか?」
「そうだったのか?昨夜は、ホッとして、爆睡していた」
「嘘つけ!いつも枕の下に、銃を隠し持って、臨戦態勢でいるくせに!」
「ああ、あれか?ずっとそうしていたから、枕の下がごつごつしていないと、眠れなくなってしまったのだ」
アンドレは、今まで、いろいろな、妻の顔を見てきたが、まだまだありそうな気がしてきた。
アンドレが、笑った。
「おまえ、楽しんでいるな?!」
「そうじゃないけど、ジャルジェ准将の一面を拝見したと思ってな!」
「まあ、とにかく、急いで帰ろう。
陛下たちが、心配なさっているだろう。
多分、お持ちした、朝食ものどを通らないでおられるだろう」
*******************
帰宅すると、アンドレもアリエノールも、遊びに出ていた。
フランソワは、ジャルママが見ていた。
それを良い事に、2人は3階に行き、見てきた事を話した。
国王始め、2人の女性が、やはり、どういう事でしょう?
と、首を傾げ、無言で考えこんでいた。
やおら、国王が立ち上がり、窓の外を眺めた。が、外は、壁に覆われ何も見えないが・・・。
「昨日、タンプルの塔から、此処まで、そんなに歩いていなかったと思う。
こんなに近い所に居て、果たして安全なのか・・・ジャルジェ准将。
おまえの事は、信じているが、やはり、心配になる。
それに、ここに来てから、まだ何も聞いておらん。
わたしは、国王として、民衆の前で堂々と死んでいく決意をした。
それを、有無を言わさず、此処に連れられて来た。
ジャルジェ准将、そなただけの判断だけとは、思えん。
全てを、話してくれ」
オスカルは、予想通りの陛下の言葉に、頭を下げた。
答えは、全て用意してある。
ただ、本当の事ではない。
本当の事ではないから、困った。
オスカルの、性格からか、思っている事が顔に出てしまう。こんな時、アンドレだったら、どれほど良かったと思った。あの、ポーカーフェイスが、欲しいとこんなに真剣に思った事は無かった。
それに、オスカル自身、知らない事が、沢山あった。全ては、秘密裏に、何処からも漏れないよう、連絡を取り、作戦を立てた。それを、伝える事は出来なかった。
まず、本心から告げた。
「前もって、お伝えしなかった事は、本当に申し訳ございませんでした。
お伝えすれば、お断りになる事が、分かっておりました。
そして、もし、事前に我々に同意して頂いて、あの、お別れの場面を演じて頂くと、本当に演技になってしまいます。ですから、奇襲作戦にでました。お許しください」
此処まで、話してオスカルは一息ついた。
まさか、いずれ国王一家が、タンプルの塔に移されるのを知って、この家を手に入れた。などと言う訳にいかない。ましてや、ジェローデルが・・・。なんて、口が裂けても(オスカルさまの、口が裂けたら大変!)言えなかった。
「どうしても、国王陛下ご一家に生き延びて欲しいという者がいます。その者が、わたしの家が、タンプルの塔に近いという事で、話を持ち掛けてきました」
間逆のことを言った。事実は、国王陛下ご一家を救いたいから、タンプルの塔に近い所に住んだのだ。
「フェルゼン伯爵か?」
国王が、微妙に嫌な顔をした。それは、オスカルにしか、見えなかった。
これで、フェルゼンの名を出す事が、出来なくなった。
「違います。
わたしです。」
オスカルは、きっぱりと言った。
「幼い頃から、宮殿に出入りさせて頂いて、微力ながら、軍務を務めてまいりました。その陛下ご一家が、罪もなく裁かれて行かれるのを、見ていられなかったからです」
オスカルの本心だった。目には、涙があふれていた。
国王陛下が、頷いた。
「して、こんなに塔から近くて大丈夫なのか?
いつまでも、此処に居るのでは、ないだろう?
いつここを出て、何処に行くのだ?」
オスカルは、この件については、正直に答えられた。
「まず、塔から近いので、かえって捜索されにくいと思われます。
それに、此処は、未だご存じありませんと思いますが、庶民の暮らす、アパルトマンです。このような所に、高貴な方がいらっしゃるとは探索側は考えないと、考えられます」
そこで、国王が聞いた。
「アパルトマンとは、どういうモノなのだ?」
「はい、様々なタイプのものがあります。
こちらは、一軒の大きな建物に、縦割りになっていて、何軒かの家族が暮らしています。
ですから、この壁の向こうは、隣の家になっています。
ただ、この壁は、大きな音さえ立てなければ、隣に聞こえる事はございませんので、ご安心ください」
しかし、隣の部屋に音が漏れる・・・と言う事が、理解できなかった。そのような事は、経験したことが無かったのである。
オスカルは、試行錯誤して、窓ガラスで説明した。
そして、これから一般の貴族、もしかしたら庶民として、暮らしていかなければならない。
この一家に、様々な事を、説明するわずらわしさを、ほんの少し感じてしまった。
「こちらには、ほとぼりが冷めた頃。
多分、半年から、一年滞在して頂く事になると思います」
「随分と、慎重だな」国王が、答えた。
「はい、今は、パリの壊されてしまっていますが、市門を始め、外国へと通じる街道、全てが閉鎖されて、通る事は出来ません」
それを聞いて、アントワネットは、ヴァレンヌを思い出して、青くなった。
「長い間、この部屋だけで暮らしていただきますが、囚われの身でいらっしゃることに比べれば、快適だと思います。
それぞれの方に、暇つぶしになる様なものをご用意させていただきました。ご所望の物があれば、出来る限り手配させて頂きます。
また、情勢が変われば、もう少し、自由になって頂けると思います」
「うむ、分かった。全ては、そなたに任せて、昨日までの事は、忘れる事としよう。
わたしとて、弱き者たちを置いて、死んでいく事に、不安を抱えていた。
よろしく頼むぞ」
国王は、今まで見せたことの無い、威厳を持って告げた。
その様子を見て、アントワネットは、初めて夫の逞しさを感じた。
でも、フェルゼンを愛していた。
つづく
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