その夜もジャルジェ家では、オスカルの音楽サロンが、開かれていた。
オスカルの住まう一角には、ホールの喧騒も聞こえてこない。したがって、オスカルは、ブランデーを片手に、静かに本を読んでいた。

その時、オスカルが、誰も呼んではいないのに、ドアがノックされた。
それも、聞きなれた音だ。
アンドレだ。

アンドレ独特の、癖のあるノック。
ある時は、喜びと共に聞いていた。
その後は、悲哀をこめて、聞いた。
そして、ある日を境に、胸をときめかせて、待っていた。

だが、今夜は、入るよう促す事もなく、本を手にしたまま、ドアを見た。部屋の外に居るアンドレも、それを、十分承知しているのだろう。
声だけかけた。

「オスカル、ラトゥールさまが、いらしたぞ」

アンドレは、そう伝えると、ゆっくり階段を降りていった。
アンドレの後ろから、一陣の風が舞った。
オスカルが、礼装用の上着を持って、駆け抜けた。

アンドレも、追った。
ラトゥール家の馬車が、玄関前に着き、扉が開けられるところだった。オスカルは、もう、きちんと礼服を着ていた。

来客は、その屋敷の玄関まで、執事に案内され、そこで、主と挨拶をする。
それが、ルイ14世以来のマナーだった。
(なんて事、筆者はいい加減に書いております)
しかし、今夜のオスカルは、そのマナーを破った。

則ち、ラトゥールの馬車に寄り、ラトゥールが、降りてくるのを、未だかと、待っている。しかし、ジャルジェ家の使用人は、礼儀正しく、馬車の扉を開け、踏み台を恭しく出し、来客に丁寧なお辞儀をすると、やっと辞した。

ラトゥールが、踏み台など、無視して飛び降りてくる。やはり、彼らしいな。オスカルは、早く挨拶をしたくて、うずうずしている。

オスカルは、ラトゥールの腕を、バンバン叩いた。
「ラトゥール!久しぶりだな!」

「オスカル!最近は、四剣士隊の会合にも、顔を出さずに悪いな!
おまえのサロンが、どのようか、見に来た。
噂では、殆どアンドレが、取り仕切っているようだな!?」

ラトゥールは、大声で笑った。
オスカルは、バツが悪く、返す言葉も出なかった。


この音楽サロンも、何度目か催される様になると、落ち着きを見せてきた。
弦を奏でるものが、とんでもない金属音を響かせ、放り出された。
鍵盤を叩く者は、響きが悪いと、これまた追い出された。

しかも、ラッパの音につられて、ばあやが、鍋を持って、「今日は、絹ごし豆腐、3丁おくれ!」と、出て来られた者は、宮廷でも、笑いものにされた。

こうして、(一応)ジャルジェ准将の音楽サロンは、洗練された自称音楽家、そして、自称音楽を聴くことの出来る耳を持つ者以外、残らなかった。

当初、優雅に優雅な椅子に腰かけていた優雅な人々が、この様な素晴らしい音楽…聴くだけでは、勿体ない。踊って楽しみましょう…優雅に…。と、優雅に、言い出した。

しかし、ゆっくりと、音楽を楽しみたい…そういう者もいた。自我が強い、貴族たちは、己の、欲望を満たす為に、優雅ではない、喧騒になった。

それを、纏めたのは、やはり、アンドレだった。
サロンを、前半・後半に分けた。前半は、演奏会。後半は、舞踏会に、決まった。

そんな訳で、彼らは、アンドレに感謝していた。
これまで、オスカルの影であったアンドレに、光があたり始めた。

オスカルを男として、キャーキャー言っていた若い女性も、アンドレに、淡い思いを抱き始めた。そして、アンドレに、秋波を送り、ラブレターを送った。

が、アンドレには、オスカルしか見えていなかった。が、最近は、オスカルの心が、つかめなくて苛立っているのも、事実だ。

優雅な男性は、優雅に優雅な女性に、腰を折り、挨拶をして、フロアーに誘った。ヴェルサイユ宮殿では、見られない不思議な舞踏会だ。

すなわち、カーテンの陰に隠れるカップルが、いなかった。此処に集まるものは、兎に角、人前で演奏する事に、飢えていたのである。
そしてまた、素晴らしい演奏を聞く事にも、喜びを感じていた。

なにしろ、『質実剛健』をモットーとし、『清く、正しく、美しく』でもあるジャルジェ家である。優雅で、知性溢れる友人と知り合う、チャンスにも恵まれていた。

ラトゥールが、適当な所に腰かけると、オスカルも隣に、腰かけた。すると、アンドレが、ラトゥールに、ご所望のお飲み物は?と、聞いてきた。ラトゥールも、アンドレとは、親しかった。

ラトゥールが、答えた。アンドレには、オスカルには、聞かなくとも、何を欲しがっているのか、瞬時に察することが出来た。

だが、その夜は、丁寧に腰を曲げ、何をお持ちしましょうか?そう問いかけた。オスカルの眉が、キッと上がった。

オスカルは、黙っていた…分かっているだろう…と、だが、アンドレは、腰を曲げたまま、動かない。オスカルは、黙っている。膠着した状態が続いた。ラトゥールでなければ、その場を逃げ出しただろう。

ラトゥールは、涼しい顔をして、音楽を堪能していた。
これまでは、アンドレが折れていた。だが、今夜は、アンドレも譲らない。この状態を打開したのは、ラトゥールだった。

一言言った。
「オスカルは、水でいいそうだ」と、…。


「かなり、険悪なようだな。ロドリゲとド・ギランドに聞いて、様子を見に来た。サロンなら、おまえにも、アンドレにも同時に会える」
ラトゥールは、心配そうに、大親友の顔を覗き込んだ。

すると、珍しくオスカルが、泣きそうな顔をしていた。

「Vアラートか?
話してみろ?
おまえに、そんな顔をされるのは、辛い」

オスカルは、国王陛下から、告げられた家督相続の件。
そして、アンドレに相談しようとしたのに、
アンドレが、勝手に、国王陛下に、返事をしてしまった。

と、ざっくばらんにしか、話さなかった。
アンドレの、大きな胸の女への、執着は恥ずかしくて、言えなかった。

ラトゥールは、立ち上がると、トレーを手に、ホールに入って来たアンドレを捕まえた。オスカルが、見ていると、何やら話している。真剣な顔で…。すると、アンドレが、破願した。

オスカルには、それで全てが分かった。
そして、オスカルは、考えた。
『隠密』だ。
この屋敷の何処かに、密かに隠密が、いるのだ。

ラトゥールも戻って来た。
「その顔じゃ、納得したようだな。
アンドレも、『隠密』の、仕業だと言っていた。
これからは、気を付けろよ!

あまり、派手に動くと、婆さんと、爺さんの結婚式になるぞ」
そう言って、ラトゥールは、演奏の邪魔にならないように、笑った。

オスカルは、Vアラートの件は、片付いた。
でも、やはり、胸の大きなオンナの存在が、気になる。
でも、おしどり夫婦で、知られるラトゥールには、話せなかった。

やがて、前半の演奏会が終了した。
ラトゥールは、妻が、身ごもった。
傍に付いていたい。
そう言い、後半は帰ると言った。

ラトゥール家には、暫くして長男が生まれた。
その話は、もう一つのバージョンにて…。

オスカルは、まず、一つの問題が、片付いたお礼に、玄関まで見送りに出た。ラトゥール家の馬車が、遠ざかって行く。

オスカルは、そのまま、自室に戻るつもりだった。
そこへ、バタバタと、駆け込んでくる足音がした。

オスカルには、その足音が、誰だかすぐに分かった。

足音は、
すまん、すまん、遅くなったから、馬で出てきた。
そうしたら、迷ってしまって、更に遅くなってしまった。
…と、言った。

すると、その背後から、従者に楽器を持たせ、優雅な足取りで、近づいてくる足音もした。

そして、その足音は、
お久しゅうございます。マドモアゼル…と、言った。

オスカルは、逃げ出したくなった。
アンドレは、複雑な思いに駆られた。

己の心に正直なオスカルは、部屋に向かって走り出そうとした。
が、アンドレに、後ろ襟をつかまれた。
振り向くと、目を逸らして、首を振っていた。

仕方がなく、フェルゼンと、ジェローデルに向かい合った。
仏頂面で…。

オスカルと話したくて、うずうずしていたジェローデルが、先に話し出した。フェルゼンにとっては、オスカルは大親友である。したがって、静かに、ジェローデルを、見守った。

ジェローデルが、今夜は、フェルゼン伯爵と演奏しようと、思い、マドモアゼルのサロンにお邪魔しました。是非とも、演奏させてください。決して、マドモアゼルに不快な思いはさせません。

そう述べた。
オスカルは、渋々と、そういう事は、全てアンドレに任せてある。彼に、演奏の手筈、割り込む順番を相談してくれ。

そう言って、立ち去ろうとしたが、
ふと、興味を持って、聞いた。

「そういえば、2人は面識がないのではないか?
どうして、組むことになったのだ?」

「いえ、マドモアゼル、伯爵の妹嬢の馬車が事故った時、お目にかかりました。

あの時は、マドモアゼルが『マティニヨン通り』のフェルゼン邸と仰るので向かいましたところ、伯爵があそこに住みだしたのは1789年以降でしたので、再びヴェルサイユ迄戻って来て、大変でした!」

「そうだったか…すまなかったな。あの頃のわたしは『王室の飾り人形』だったので、決められたセリフしか言えなかったのだよ。それに、わたしは、アンドレがいないと、使い物にならないようだ…だが…」

オスカルは、黙ってしまった。最近のアンドレとの関係を、思い返した…。いつから、碌に話もしなくなったのだろうか…。何が、原因だったのかも忘れてしまった。このサロンも、お互い姿を見ることが出来ると、始めたのだ。

フッと、見つめている、2人の視線に気づいた。
オスカルは、慌てて、
「…で、フェルゼン。おまえ楽器は何が、弾けるのだ?」
「………ピ…ピアノだ」
「ほう!音楽に造詣が深いのは、知っていたが、自ら奏でるとは、初耳だ。それに、アントワネットさまに、ハープの手ほどきをして頂いたのかと、思った」

「ジェローデル、おまえは?」
オスカルは、一応、礼儀として聞いた。

ジェローデルは、脚を開き楽器を持つ仕草をすると、
「優雅に、時に激しくチェロを奏でます。」
「ほう、チェロか…」

アンドレが、出番を知らせに来た。

フェルゼンは、オスカルの手を取り、ピアノの横に連れて行った。
「私が、高音部を受け持つ、オスカルは、低音部を弾いてくれ」
オスカルは、突然、ステージに連れて来られて、その上、予告も無しに、弾け!と言われてしまった。

タジッとしているオスカルに、フェルゼンは、
「私が弾き始めれば、おまえなら分かる。私に任せろ」
そう言って、フェルゼンは、レースとフリルで、ごしゃごしゃした袖を、まくり上げた。

観客は、未婚で、麗しいフェルゼンとジェローデルに、演奏前から魅了された。しかも、オスカルまでいる。オスカルと言えば、第一回目のサロンで、見事な超音速モーツァルトを、奏でた。

もしかしたら、今夜は、バッハのインベンションかしら…。
聴衆は、ワクワクしながら、三人の手が楽器に触れるのを待った。それぞれ、パートナーと、ダンスの手を止めて。

しかし、インベンションで、踊れるのか…2声までしか、進んでいない筆者には、不明である。

先ず、ジェローデルが、優雅に前奏を奏で始めた。オスカルは、これなら、いけるぞ!そう思い、フェルゼンのように、フェルゼン程、ひらひらしていない、袖をたくし上げた。

チェロの次は、ピアノの高音部が、優しいメロディを奏でる。その後に、重厚な低音部が入るはずだった。

が、
演奏していたフェルゼンが、突如立ち上がり、オスカルの手を取った。優雅な足取りで、オスカルをセンターへと、リードした。
曲は、メヌエット。
オスカルは、フェルゼンにリードされるままに、踊っていた。

その時、飲み物をトレーに乗せたアンドレが、入って来た。
目の前の姿に、唖然とした。

広間の中心で踊るオスカルの耳に、フェルゼンがそっと囁いた。
「以前は、最後まで躍らせてくれなかった。
今夜のメヌエットは、最後まで、離しませんよ・・・」

オスカルは、何年も前、初めてドレスを着て、フェルゼンの前に立った時を思い出した。胸の古傷が痛み、フェルゼンの手を振り払う事を忘れてしまった。

フェルゼンの囁きが、続いた。
「あの頃は、おまえを女として見ていなかった。だが、おまえも、新しい恋に目覚め、一層美しくなった・・・」そう言うと、耳元に寄せていた唇を、オスカルの唇に重ねた。

その時、フェルゼンの肩に手がかかり、オスカルから引き離した。
ジェローデルだ。

「今度は、私の番です。フェルゼン伯爵、貴方は演奏をお願いします」そう言うと、今度はジェローデルが、オスカルの手を取った。

オスカルは、完全に翻弄され、周りを囲む紳士淑女は、2人の為ホールの壁に身を寄せた。

フェルゼンが、大きく腕を上げ、先程よりずっと、アビの袖を上げた。
そして、弾き始めた。

『猫ふんじゃった!』を・・・。

ジェローデルが、オスカルを振り捨てて、フェルゼンに向かっていった。フェルゼンもそれに応じた。軍人同士の、取っ組み合いの、殴り合いが始めた。

殴り合い、取っ組み合いの、罵声、物が壊れる音をつんざく、更なる爆音が、広間中に響き渡った。


だが、1人暗い顔をした男は、近くにいた同僚に、トレーを渡すと、ある部屋に入っていった。狭い部屋だった。何も置いていない。ただ、部屋の中央に、使い古したサンドバッグが、吊るされていた。

アンドレは、『あしたのジョー』になっていた。
ただ、基本など知らない。何故なら、そこには、丹下段平は、いなかった。ただ、苛立ち、貴族への不満。オスカルへの怒り、それらを、サンドバッグに、打ち込んだ。
(ここのアンドレは、草むしりは、しない)

どの位、打ち続けただろうか。額から流れ落ちた汗が、顎まで滴っている。それが、床にまで、落ちて行った頃、アンドレの動きが止まった。まだ、アンドレの怒りの塊…サンドバッグ…は、揺れ動いていた。

アンドレは、それをそっと抱き留め、宥めるようにさすった。

そして、サンドバッグに話しかけた。
おまえも、かなりボロクソになってしまったな。
そろそろ、引退するか?

   つづく

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