6月20日朝
アンドレの寝起きは、抜群に良かった。
起きてすぐに、ハイテンションの子どもたちとも平気で遊べる。
だがその朝は、すこぶる不調だった。
夢見が悪かったのか、胸の中に何か引っかかるものがあった。
隣に眠る妻を見ると、未だすやすやと寝ていた。
なんとなくホッとした。それにしても、腹が大きい。
これまでの2人の時は、こんなではなかった。
それに、此処の所、一段と膨らんだようだ。
まあ、良い事なのだろう。
アンドレは、シャツを着て、ジャケットを椅子に放り投げた。
妻をそっとゆり起こす。
妻も元軍人だ。
危険な気配があれば、パキッと起きる。
おれほど、テンションは、高くはないが・・・。
むしろ、冷静だ。
だが、最近はゆっくり眠っている事が多い。
それなのに、安全に幸福に暮らしている今でも、枕の下に銃を置いている。
だがその日のオスカルは、だるそうに起き上がった。
最近は、腹の子の事は勿論、王室一家の件でも気を使って疲れているのだろう。
アンドレは、そう思った。
アンドレが、オスカルの着替えを手伝った。
プチも、アンドレ同様朝からハイテンションで、階段は、手摺りにまたがり、滑り台の様に降り、着地すると毎回違ったポーズを決めた。
やはり、オスカルの子だな、おれは思った。
アリエールの着替えは、最近は奥さまにお願いしている。
妻に寄り添いながら階下へと向かった。アンドレには、妻の様子が、何か変に感じた。いつもの様に足元を気にして、ゆっくりと降りていくのは、同じだった。しかし、今日はどこか踏ん張っているようだ。何かわからないけど、不安を感じた。
朝食のメニューは、全員バラバラだ。プチは、グラノーラにヨーグルト。手が掛からない息子だ。アリエールは、パンケーキ。時に、チョコレートを溶かしてもらい、バナナにかけて食べている。
奥さまは、サラダ、搾りたてのフルーツジュース、クロワッサン、カリカリのベーコンに、フルーツ、コーヒー。まだ、貴族の習慣を捨て切れないでいる。
おれは、自分で用意する。トーストしたパンと、無糖のヨーグルトにコーヒー。バターをたっぷりとぬりたい。しかし、おれも、そろそろ、四捨五入すれば40歳、中年太りを気にしてる。それに、体型を崩して、オスカルに三下り半を突き付けられては、大変だ。
だから、オスカルの朝は忙しい。
それにしても、今朝のオスカルは変だ。彼女としては、いつものようにテキパキと、動いているつもりのようだが、だるそうだ。
おれは、決めた。
今日は、仕事を休むことにした。
しかし、理由もなく休むと、オスカルが不機嫌になりそうだ。
彼女は、軍務についていた時、1日たりと休んだことがない。
理由は、頭痛にしよう。待てよ、それなら、寝てろ!と言うだろう。
熱が40度もある。すると、妊婦さんの傍に寄るな!
追い払われてしまいそうだ。
側にいられるよう、使える仮病はないか。
おれは、考えた。
しかし、普段病気などしたことがないので、わからない。
足の一本も折ろうかと考えた。
だが、それでは、病院に行かなければならない。
ヨーグルトを食べながら、おれは、ひらめいた。
ピーになれば良いのだ。
原作好きの方々には、申し訳ないが、今日のおれは、ピーだ。
SSの世界でも、おれがピーになる事など、なかっただろう。
だけど、此処でのおれは、ピーだ。
それもこれも、オスカルの為だ!
許してくれ!
そうと決まったら、トイレにGOだ。
オスカルの様子が安定するまで、トイレと仲良し君になれば、きっと大丈夫だ。
おれは、決断した。
しかし、どの位の頻度で、仲良し君の所に行けばいいか、分からなかった。
でも、おれは、オスカルが訝しがる事なく、家にいる事が出来た。
キッチンの片付けが終わると、オスカルがキャビネットの引き出しをゴソゴソとしていた。おれが仕事に行っている間、おまえはそんな事をしているのか・・・。仕事を休んだおかげで、普段の妻の姿を見られるのも、嬉しかった。
が、妻は、小さなオレンジっぽい箱をおれに持って来て、飲め!と言った。
そして、箱を渡された。
『ラッパのマークの正露丸』と書いてあった。
「自然にしていても、一食位抜けば治るが、飲んだ方が早く治る」
妻がそう言った。
おれは、焦ってしまった。何でもないのに、いたって健康なのに、ピーの薬なんて飲んでいいのだろうか?そこへ、妻が水の入ったグラスを持って来てくれた。
おれは、祈った。普段、八百万の神々の存在など、ピンチの時にしか思い出さないが、今が、その時だった。
蓋が二重になっていた、嗅いだことの無い妙な匂いがした。どうやら、錠剤の様だ。おれは、ひらめいた。飲んだふりをして、ポケットに隠せばいいのだ。
妻から、グラスを貰い、テーブルの上に置いた。妻が、心配そうに見ている。そんなに心配なのか?悪いな!だけど、それ以上におれは、おまえの事が心配なのだ。
妻は、まだそばを離れない。
どうやら、ちゃんと飲むまでいる様だ。
これでは、ごまかしがきかない。
やはり、絶体絶命だ。
なんで、こんな薬が家にあるのだ?
おれは何となく聞いてみた。
すると、おまえの様に、病院に行かなくてもいい簡単な病気を治すためだ。
そうなのか?おれは、二つ目の蓋を開けてみた。
すごい、異臭がした。これを、ポケットに入れたら、確実にばれる。
それに、洗濯しても落ちないだろう。その上、錠剤なのに、プニプニと柔らかそうだ。万事休すだ!
困ったおれは、箱を眺めてみた。使用期限なるものが、書いてあった。
おお!おれの救世主が、そこにいた!
3か月前に、期限が切れている。
おれは、オスカルに告げた。
期限切れだ。
すると、オスカルは、箱を見つめて、大抵の薬は、期限切れでも、大丈夫なのだ。だが、腹が悪いのに、飲んで何かあったら大変だ。やめておこう。その代わり、昼抜きだからな!
普通に笑ったのだろうが、おれには分かった。少し引きつっていた。
そして、妻は、正露丸をゴミ箱に投げ捨てた。が、入らなかった。
オスカルのコントロールは抜群だ!それを外すとは、やはり、ただ事ではない。
今度は、オスカルは、クイックルワイパーを出してきて、フローリングの床の掃除を始めた。大儀そうである。おれがやるから、座っていろ。たまには、楽をするのもいいものだ。そう告げた。
すると、普段はこう言った事を決して譲らない妻が、素直にソファーに落ち着いた。
やはり、変だ。
昼になると、腹をすかせた子ども達も帰ってきた。
おれは、昼抜きだが、一応食卓に着いた。
オスカルが、ピーの時は、水分を取った方が良いと、お茶を淹れてくれた。
とても、甘く、美味しかった。
また、妙な物を持って来られたら、大変だ。
だが、今、治ってしまったら、半休と言う事にして、出勤しろ!と言われてしまう。
もう少し、お友達と仲良くする事にした。
オスカルは、いつ用意したのか、ピラフを用意していた。
奥さま始め、子ども二人に、ゆっくり、噛んで食べろよ!と笑う顔が、やはり引きつっていた。
オスカル自身は、食欲がないからと、少なめに食べていた。
絶対変だ。おれは確信した。
だが、何が変なのか、分からなかった。
後片付けはおれがやろう。と言い出すと、やはり、素直に任せてくれた。
お陰で、片づける振りをしながら、腹を満たす事も出来た(笑)
昼過ぎ、オスカルは、近所の子どもに勉強を教えると出かけて行った。出かけると言っても、我が家の前の、ベンチが並んだところだ。だからおれは、黙って見送った。
しばらくして、おれは、オスカルがどの様に教鞭をとっているのか見たくて、外に出てみた。妻は、子ども達の真ん中に座って、年齢の違う子ども達に、それぞれ説明していた。
すると、ある子どもが言った。
先生、今日は何で座っているの?
いつものように、近くに来て教えて下さった方が、分かりやすいわ。
すると、悪かった。うっかり座ってしまった。
何処が分からないのか?・・・。歩いて行ったが、いつも姿勢のいい妻が、前かがみになっていた。
他の子どもも、手を上げた。
今行くぞ!待ってろ!オスカルが、答えたが、その声に覇気がなかった。
その時、腹をさすった。
え゛・・・、おれは、目の錯覚かと思った。
が、また、さすった。
そして、今度は、本気で顔をしかめた。
予定は・・・7月中旬じゃなかったのか?
おれは、オスカルの月のモノがいつから来ないのか、確かめようとした。
だが、そんな事は、どうでも良かった。
予定は、6月だったのだ。
そして、それは、今日来ているのだ。
おれは、今度こそ、確信した。
そして、動かなければならない。
おれは、子ども達が集まっているテーブルに近づいた。
そして、オスカル先生は、急用が出来たから、今日はここまでで、終わりだ。
済まないけど、解散だ!
おれとしては、かなり強く言ったようだ。
あのオスカルが、ハッとした。
そして、不安そうにおれを見た途端、前かがみになっていたのが、崩れた。
おれが妻を抱えて寝室に向かった。すると、オスカルが、言った。
おまえも、ピーなのに、済まないな・・・。
痛い所を突かれてしまった。
しかし、これからいつまでかかるか分からない、超大事が待っている。
隠している場合ではなかった。
おれの腹痛は、嘘だ。
朝から、おまえの様子がおかしいから、仕事を休む為の口実だ。
だから、安心して、頼れ。
オスカルが、コクンとうなずいた。
寝室に連れて行って、今、何分おきか?それとも、未だ、間隔は長いのか?
これまで、オスカルの陣痛が軽いのか、それとも、耐える力を持っているのか、傍から見ると、さっぱり分からなかった。
「時計を見ていないから、分からないけど、まだだ。
結構、間隔はある。隠していて、済まなかった。
でも、今日は、是が非でも外すわけにはいかないんだ。
子どもが生まれたら・・・出かけるからな!」
馬鹿野郎!おれは、手を上げる所だった。
国王一家の命運より、オスカルの身体の方が大事だ。
「だめだ!柱に縛り付けてでも、行かせない!
おれは、本気だぞ。覚悟しておけ!」
「ふふふ・・・おまえが、本気を出すと、梃子でも動かぬ事は、知っているが・・・。
今日だけは、譲れない!フランスの運命もかかっているのだ!」
「フランスが、どうなろうと、知った事じゃない。
フランス沈没が、起これば、おれはおまえと、子ども達を担いで、どこへでも逃げていくさ!」
オスカルをベッドに寝かせると、おれは、オスカルの書棚を見た。
相変わらず、難しい本ばかりだ。ある棚に、童話、それから、女の子の育て方だの、女の子の心理、といった本があった。
なんだかんだ言っても、アリエノールのしつけを気にしているのだな。おれは、嬉しくなった。しかし、今は、そんな事を思っている場合じゃない。それらの隅に、背表紙が、こちらに向いている本を何冊か見つけた。
育児書、妊婦用の本、その中に『出産日をコントロールする』と言う本を見つけた。
ちくしょう!おれは、妻を毒づいてやりたかった。
著者は『聖✩おにいさん』胡散臭い名前だ。多分、ペンネームだろう。
そんな事より、おれが知りたい、『How to出産』が無い。
おれは、オスカルに聞いた。
「当たり前だ、そんな事は、普通、産婆さんに任せるものだ。
売っていない!」
此処で、アンドレは、やっと気づいた。産婆さんを呼びにいかなければならない。アンドレは、妻に聞いた。何処の産婆さんに診てもらっているのか?
すると、オスカルは、お前に知られたくなかったから、誰にも診てもらっていない。
アンドレは、頭の中が真っ白になった。
その時、オスカルが落ち着いた声で言った。
母上に任せれば良い。6人も生んでいるし、5人の姉君と、わたしの初産にも立ち会っている。ベテランだ。
アンドレは、やっと一息つくことが出来た。
兎に角、奥様を探してくる。まだ、大丈夫だな?
オスカルが、ニッコリとうなずいた。
ジャルママが、珍しく寝室に駆け込んできた。
そして、オスカルの手を取った。
「あゝ、オスカル。大丈夫ですか?
私が、手を握っていますから、安心しなさい」
この言葉に、オスカルもアンドレもホッとした。
アンドレが、
「奥さま、何でも必要なものを、言いつけてください。
私が全て用意します」安心した声だった。
「まあ、何を・・・。」相変わらず、おっとりしていた。
「ですから、出産に必要な物、すべてです。」
アンドレは、少しイラっとした。
「そんな事、私、知らないわ」
ジャルママは、何をこの娘婿は言っているのかしら。と思った。
「母上、母上は、わたしを最後に、6人の子供を生んで、姉君はじめ、わたしまで6人の初産にも立ち会っているのですよね!ご存知ないとは、言わせませんぞ」
「そうよ、立ち会っているわ。こうして、手を握って励まして、一緒に頑張ったわ。貴女も覚えているでしょう!」
オスカルは、思い出した。プチの時、ばあやが走り回って、侍女達に指図を出していた。アンドレは、わたしの額の汗を吹き、キンキンに冷えた水を持ってきてくれ、あれやこれやと、思いつく限りの事をしてくれた。
その反対側では、母上がただ、手を握っていた。
オスカルは、天を仰いだ。
そして、思案した。
そして、准将の顔になった。
そんなオスカルの、変化をアンドレは、見守っていた。
そして、
「オスカル、何が必要か?
言ってくれ、準備する。
そらから、いざと言うときは、どうしたらいいか、今のうちに伝えてくれ!」
「全て、この身体が覚えている。
おまえが、取り上げるのだ。
今、話してもタイミングが、わからないだろう。
その時に、指示する。おまえなら、出来るはずだ。
母上、タイミングを見計らって、産湯を沸かして下さい」
そう言うと、オスカルは、ふーっと息を吐いた。
するとジャルママが、
「あら、そばで手を握っていなくていいの?
その方が、心強いでしょ?」
「母上!手を握られようと、どうしようと、辛いのは同じなのです。
わたしが、合図したら、大きな鍋に湯を沸かしてください」
オスカルは、イライラして言った。
が、さらに、ジャルママは、
「妊婦さんが、そんなにイライラしては、良くないわ。ゆったりしなさい」
なんて、言ったものだから、
「下にいって、相応しい鍋を探していてください!」
ジャルジェ准将が、怒鳴った。
ジャルママは、またまた、おっとりと、
「オスカル、頑張ってね」そう言って、ドアにゆっくりと向かった。
オスカルは、枕を投げつけたかったが、出来なかった。
「オスカル、必要なものは?」
「全てチェストの一番下に、入っている」
アンドレは、言われたところへ駆け寄った。ガーゼがたくさん、産着もあった、それもいつの間に作ったのか、手作りだった。その他諸々入っていたが、どれをどう、使ったらいいのかさっぱり分からなかった。
取り敢えず、全てを持って、空いている方のベッドに置いた。
「指示してくれ」
「あゝ・・・。」
オスカルが、てきぱきと指示する。
アンドレも言われた通り、素早く用意する。
その時、オスカルが胸元に手をやった。何かを探していた。
無い・・・。どうしたんだろう?いつも身に着けていたはずなのに・・・。
オスカルの様子を見て、アンドレは、もしかして・・・メダイ・・・か?
ふふふ・・・おまえらしくないな、その様な物に頼るとは・・・。
アンドレが、惚けて言った。
プチの時も、アリエノールの時も、身に着けていた。
だから、今度も、身に着けていたいのに・・・ないのだ。
いつ、どこで失くしたのだろう・・・。
すると、アンドレがチェストから、小さな箱を持って来て、
「これだろう?アラスでの修行後、シャワーを浴びた時、忘れていった。
その内思い出すだろうと、持っていた。
ほら、首を少し上げられるか?着けてやる」
オスカルは、バツの悪い顔をしていた。
すまない、この様に大事な物を、置き忘れて、その上忘れていたなんて・・・。
マジで悪そうだった。
そして、思った。あの時、ジェローデルが鎖骨の近くに口付けが出来たのは、これがなかったからだ。これは、本当にわたしを守るものだったのだな。アンドレ、済まなかった。
アンドレが、まだ、オスカルに余裕があるとみて、おまえ、鎖骨の下・・・虫に刺されていただろう?まだ、赤いぞ!始めは、ひっかいたのかと思ったのだが・・・。最近、それが、赤い薔薇に見えてきた。不思議だなぁ!
オスカルは、出産と違う汗が流れてきた。確か、しばらくすると、消えると言っていた。あの野郎!今度会ったら、十字架を、額に張り付けてやる。
そう思ったが、段々、その余裕も無くなってきた。
オスカルの額から汗が噴き出てきた。水を持ってくる。アンドレは、階下にプチのように、手すりを滑り降りた。ポーズは、しなかった。額を冷やす水と、飲み水を用意して、戻ろうとした。しかし、胸騒ぎがして、キッチンを覗いた。
案の定、ジャルママが鍋を並べて、突っ立っていた。
ああ、アンドレ、このお鍋がいいかしら・・・。寸胴鍋を見せて言った。
怒髪天!
アンドレは、金ダライを渡して、これにお湯を入れて来てください。
頃合いは、こちらから、お知らせします。
その頃、2階では・・・。
子ども達が、そっと寝室のドアを開けて覗いていた。
プチが、母さん病気なの?そっと聞いた。
オスカルが、子ども達を枕元に呼んで言った。
ふふふ・・・病気ではない。おまえ達の弟か妹が、生まれるんだよ。
オスカルが、顔をしかめながら、優しく言った。
でも、ママン苦しそう。アリエノールちゃんのアンジュちゃん貸してあげる。
貸すものが無いプチは、パンパンに膨らんでいるオスカルのお腹にキスした。
アンドレが、戻って来ると、下に行ってろ!
生まれたら知らせるから、大人しく遊んでいろよ。
追い出してしまった。
オスカルは、荒い息をしながらも、アンドレに指示を出している。アンドレは、まるでジャルジェ准将から命令を受けている気分だったし、実際そうだった。
そこへ又、ジャルママが様子を見に来た。が、アンドレは、今度は、今のうちに、少し軽くてオスカルの好きなものを食べさせたいです。何か作って来てくださいますか?頼んでみた。
最近は、料理もかなり覚えて、簡単な食べやすく、胃に優しいもの位作れるはずだ。そう思って、お願いした。
ジャルママは、喜んで出て行った。
しばらくすると、下から匂いがしてきた。アンドレもオスカルも、嫌な予感がしてきた。やがて、ジャルママが、意気揚々と入って来た。トレーの上には、ビッグサイズのステーキと、ワイングラスが2個載っていて。そして、片手にワインの瓶を持っている。
オスカルが、反射的に、タオルで口と鼻を押さえた。
「あら、オスカル、どうしたのですか?いつも、頬張って食べていたじゃないの。これを食べて、力を付けて頂戴ね。それから、リラックスできるように、ワインも持って来たから、少し飲むといいわ」
アンドレは、思いっ切り、プッツンした。
ジャルママは、訳が分からず退散した。
オスカルが、窓を開けてくれ。匂いを追い出してくれ。
なんで今頃、悪阻にならないといけないのか?
そう思いながら、アンドレに頼んだ。
アンドレが、何か食べやすいものでも、持ってくるか?改めて聞いた。
オスカルは、何もいらない。だが、アンドレは、旬のイチゴが冷えている。あれなら、口当たりがいいだろう。すると、オスカルが頷いた。
アンドレが、キッチンに行って、イチゴのへたを取っていると、ダイニングテーブルにいる子ども達が話していた。
アリエノールが、どうやって、ママンのお腹の中に、赤ちゃんが入るの?すると、プチが、父さんと母さんが、仲がいいと神様が入れてくれるんだ!自慢気に言った。
すると、ジャルママが、あら違うわよ。あなた達、おしべとめしべを知っているでしょ?と語りだしたので、アンドレにしては珍しく、ジャルママを睨んだ。ジャルママもアンドレの剣幕に、口を閉じた。
そんな訳で、子ども達だけで遊ぶよう言った。外で、友達と遊んでもいいぞ、とも加えた。但し、木から落ちるなよ!今、ケガ人が出たら、大混乱だ。アンドレは思った。
アンドレは、もっと食べやすいようイチゴを半分に切ろうかと思ったが、その場にいるのにいたたまれなくて、駆け上がって行った。
オスカルが、苦しそうにする間隔が短くなってきた。
アンドレは、まだ、おれにはする事は無いのか?
今は、手を握っていてくれ!オスカルが、言った。
その時が来たら、分かる。二人も生んでいるのだ。
だいたいの感覚は、体内時計でわかる。
おまえは、わたしの指示に従ってくれ。
そして、いざという時は、どうなっているのか、知らせてくれ、それに合わせて指示を出す。
そして時間が過ぎ、夕方になった。
オスカルはともかく、アンドレも何故か、額に汗をかいていた。
オスカルが、苦しそうに言った。
アンドレ・・・何か、握るものが欲しい。
言いながら、オスカルは、手短にあるもの・・・。
銃を枕の下から出して、引き金に人差し指をあてた。
アンドレが、慌てて、おいおい!それは止めてくれ!
すると、オスカルが、
では、おまえの手を貸せ!
アンドレが、
おれの手は、塞がっている。
じゃあ、足を貸せ!
おれの足は、そんなに長くない!
ぬかせ!
それだけ言えれば、大丈夫だ!アンドレが、言った。
アリエノールのアンジュちゃんを握っていろ!人形を渡した。
オスカルは、そこが人形の何処であるかも分からずに、握って、ひねった。
そして言った。
アンドレ、行くぞ!用意はいいか!
頭が出たぞ!アンドレが言った。
オスカルが、赤ん坊を落とすなよ!
その途端、大きな泣き声が響いた。
アンドレが、ホッとした。
生まれてこのかた、こんなに緊張して、ホッとしたのは初めてだった。
赤ん坊を抱きながら、オスカルの様子を見た。
オスカルは、嬉しそうに笑っていた。
そして、言った。
どっちだ?まさか、女じゃないだろうな!?
それより、赤ん坊に父親からの、キッスをしてあげてくれ!
すると、アンドレが、おれは、男とキッスをする趣味はない!
そう言って、笑った。
オスカルも、男か・・・まあ、どちらでもいいのだ!
そう言って、笑った。
そして、オスカルが真剣に聞いた。
尻は青くないよな?
アンドレは、何の事だか分からなかった。
しかし、アッと思い出した。
大丈夫だ、今は赤いが、その内に真っ白になる。答えた。
オスカルは、アランに会うたびに、尻を見せろと言っているのに、逃げてしまう。
今度こそ、見てやるからな!
楽しそうにいつも、言っていた。
産湯に入れられるか?オスカルが、アンドレに聞いた。
ああ、それなら二人の時見ていた。大丈夫だ。アンドレは、自信満々だった。
アンドレは、ジャルママが置いた、金だらいに近づき、ガーゼを濡らそうとして、ウワッ~~チと声を上げた。
オスカルが、心配そうに見て、どうしんだ?
冷めてしまったか?
熱湯だ!アンドレが、語気を強めて言った。
2人が、ジャルママを見た。
「だって・・・お湯を沸かしてくれって言われたのだもの・・・。
それに、たらいが大きくて、ガスコンロにかけるのが、大変だったのよ」両方の手に、ミトンをして、(片方は、模様が内側に向いていた)ジャルママが言う。
アンドレは、たらいを火にかけてくれ、とは言っていないぞ。
頭の中も、煮えたぎっていた。
オスカルの天然は、母譲りだとは、それ以来誰も思わなくなった。
アンドレは、オスカルの胸の上に赤ん坊を抱かせると。
今日2度目の、階段すべり台をした。さすがにポーズは、決めなかった。
そして、水を入れた洗面器と、マグカップを持ってきて、たらいから、ほんの少し熱湯を入れた。
こうして、オスカルとアンドレの、出産騒動は、終わった。
ジャルママも、働いた甲斐があったと、ホッとしていたのを誰も知らなかった。
子ども達が入って来た。
しかし、外で遊んでドロドロだったので、アンドレに追い出され、それぞれ着替えさせられた。
やっと、こざっぱりした2人は、弟と対面した。
まあ!真っ赤なのね。うっとりしながら、アリエノールが言う。
だから、赤ちゃんだ。オスカルが答えた。
僕の、子分にするんだ!
名前は?なんて呼ぶの?
アンドレが、答えた。
フランソワ・ド・ジャルジェ・グランディエ。
そして、この子の子孫はずっと、ド・ジャルジェの名前を受け継いでいくのだ。
オスカルが、何か言おうとした。
オスカルもこの名を初めて聞いたのだ。
ずっと、バタバタしていて、無事生まれた事にホッとして、名前の事などすっ飛んでいた。
以前から、今度の子の名前は、アンドレが決めると話していた。
オスカルは、名前を繰り返して、呼んでみた、心の中で・・・。
アンドレは、頭をカキカキ、『ド・ジャルジェ』ではなく、『レニエ』も考えたんだけど、ジャルジェ家が残った方が良いと思ったんだ。
しかし、まだ、オスカルは無言だった。
アンドレが、マズッたかな~と、不安になりかけた頃、オスカルが、
「いい名だ。ありがとう!アンドレ」嬉しそうに口にした。
アリエノールが、空いている方のベッドに寝転がって、うふふと言いながら、フランソワを見ていた。そして、人形を見つけると、
「あ~~~~、ママン、アンジュちゃんのお手手、
ぐにゅぐにゅになってる~~
どうして~~~~」いつものように、叫んだ。
どうやらオスカルは、丁度いい太さの腕を握って、ひねっていたようだ。
プチが、いいなぁ!母さんも、フランソワだよね。でも、誰もそう呼ばないから、この子は『フランソワ』なんだ!
僕だけ、名前で呼ばれないんだ!かなり、いじけていた。
オスカルが、アンドレと相談して、おまえの事も『アンドレ』と呼ぶ事にした。アラスでも、パパアンドレ達3人が『アンドレ』と呼ばれていたけど、ちゃんとしたアンドレが出て来ていた。
わたし達も、区別できるだろう。
オスカルの枕元に、しゃがみこんでいたアンドレが、飛び上がって喜んだ。
オスカルが、アンドレに時間を聞いた。
8時頃だと告げると、では、2時間眠る。
そうしたら、出掛ける。きっぱりと言った。
では、ロープを用意するからな、覚悟しろ!
アンドレが、強気に言った。
頼むから、行かせてくれ!
オスカルが、珍しく懇願した。
しかしアンドレは、さっきから言っているように、王室ご一家の命運より、おれには、おまえ一人が大事なんだ。厳しく、でも、妻の体を気遣っているのが分かった。
だいたい、この時期に生まれるのを黙っていた罪もある。
今日は、大人しく寝ていてくれ。
アンドレも、懇願した。
では、毎日・・・戻られるまで、情報を集めて来てくれ。
そうしたら、大人しくしている。
3階にベビーベッドがある。
持って来て寝かせてやってくれ。
オスカルが言った。
そこまで用意していて、なぜ黙っていたんだ!
気が付かなかった自分を、とんま、そう呼び、この責任感が強く、しっかり者の妻を、それでも、愛していると思った。
こうして、グランディエ家は、幸せに満ち満ちていた。
一方で、チュイルリー宮では、まだ平常通り動いていたが、
当事者達は、胸の鼓動が大きくなるのを感じていた。
つづく
アンドレの寝起きは、抜群に良かった。
起きてすぐに、ハイテンションの子どもたちとも平気で遊べる。
だがその朝は、すこぶる不調だった。
夢見が悪かったのか、胸の中に何か引っかかるものがあった。
隣に眠る妻を見ると、未だすやすやと寝ていた。
なんとなくホッとした。それにしても、腹が大きい。
これまでの2人の時は、こんなではなかった。
それに、此処の所、一段と膨らんだようだ。
まあ、良い事なのだろう。
アンドレは、シャツを着て、ジャケットを椅子に放り投げた。
妻をそっとゆり起こす。
妻も元軍人だ。
危険な気配があれば、パキッと起きる。
おれほど、テンションは、高くはないが・・・。
むしろ、冷静だ。
だが、最近はゆっくり眠っている事が多い。
それなのに、安全に幸福に暮らしている今でも、枕の下に銃を置いている。
だがその日のオスカルは、だるそうに起き上がった。
最近は、腹の子の事は勿論、王室一家の件でも気を使って疲れているのだろう。
アンドレは、そう思った。
アンドレが、オスカルの着替えを手伝った。
プチも、アンドレ同様朝からハイテンションで、階段は、手摺りにまたがり、滑り台の様に降り、着地すると毎回違ったポーズを決めた。
やはり、オスカルの子だな、おれは思った。
アリエールの着替えは、最近は奥さまにお願いしている。
妻に寄り添いながら階下へと向かった。アンドレには、妻の様子が、何か変に感じた。いつもの様に足元を気にして、ゆっくりと降りていくのは、同じだった。しかし、今日はどこか踏ん張っているようだ。何かわからないけど、不安を感じた。
朝食のメニューは、全員バラバラだ。プチは、グラノーラにヨーグルト。手が掛からない息子だ。アリエールは、パンケーキ。時に、チョコレートを溶かしてもらい、バナナにかけて食べている。
奥さまは、サラダ、搾りたてのフルーツジュース、クロワッサン、カリカリのベーコンに、フルーツ、コーヒー。まだ、貴族の習慣を捨て切れないでいる。
おれは、自分で用意する。トーストしたパンと、無糖のヨーグルトにコーヒー。バターをたっぷりとぬりたい。しかし、おれも、そろそろ、四捨五入すれば40歳、中年太りを気にしてる。それに、体型を崩して、オスカルに三下り半を突き付けられては、大変だ。
だから、オスカルの朝は忙しい。
それにしても、今朝のオスカルは変だ。彼女としては、いつものようにテキパキと、動いているつもりのようだが、だるそうだ。
おれは、決めた。
今日は、仕事を休むことにした。
しかし、理由もなく休むと、オスカルが不機嫌になりそうだ。
彼女は、軍務についていた時、1日たりと休んだことがない。
理由は、頭痛にしよう。待てよ、それなら、寝てろ!と言うだろう。
熱が40度もある。すると、妊婦さんの傍に寄るな!
追い払われてしまいそうだ。
側にいられるよう、使える仮病はないか。
おれは、考えた。
しかし、普段病気などしたことがないので、わからない。
足の一本も折ろうかと考えた。
だが、それでは、病院に行かなければならない。
ヨーグルトを食べながら、おれは、ひらめいた。
ピーになれば良いのだ。
原作好きの方々には、申し訳ないが、今日のおれは、ピーだ。
SSの世界でも、おれがピーになる事など、なかっただろう。
だけど、此処でのおれは、ピーだ。
それもこれも、オスカルの為だ!
許してくれ!
そうと決まったら、トイレにGOだ。
オスカルの様子が安定するまで、トイレと仲良し君になれば、きっと大丈夫だ。
おれは、決断した。
しかし、どの位の頻度で、仲良し君の所に行けばいいか、分からなかった。
でも、おれは、オスカルが訝しがる事なく、家にいる事が出来た。
キッチンの片付けが終わると、オスカルがキャビネットの引き出しをゴソゴソとしていた。おれが仕事に行っている間、おまえはそんな事をしているのか・・・。仕事を休んだおかげで、普段の妻の姿を見られるのも、嬉しかった。
が、妻は、小さなオレンジっぽい箱をおれに持って来て、飲め!と言った。
そして、箱を渡された。
『ラッパのマークの正露丸』と書いてあった。
「自然にしていても、一食位抜けば治るが、飲んだ方が早く治る」
妻がそう言った。
おれは、焦ってしまった。何でもないのに、いたって健康なのに、ピーの薬なんて飲んでいいのだろうか?そこへ、妻が水の入ったグラスを持って来てくれた。
おれは、祈った。普段、八百万の神々の存在など、ピンチの時にしか思い出さないが、今が、その時だった。
蓋が二重になっていた、嗅いだことの無い妙な匂いがした。どうやら、錠剤の様だ。おれは、ひらめいた。飲んだふりをして、ポケットに隠せばいいのだ。
妻から、グラスを貰い、テーブルの上に置いた。妻が、心配そうに見ている。そんなに心配なのか?悪いな!だけど、それ以上におれは、おまえの事が心配なのだ。
妻は、まだそばを離れない。
どうやら、ちゃんと飲むまでいる様だ。
これでは、ごまかしがきかない。
やはり、絶体絶命だ。
なんで、こんな薬が家にあるのだ?
おれは何となく聞いてみた。
すると、おまえの様に、病院に行かなくてもいい簡単な病気を治すためだ。
そうなのか?おれは、二つ目の蓋を開けてみた。
すごい、異臭がした。これを、ポケットに入れたら、確実にばれる。
それに、洗濯しても落ちないだろう。その上、錠剤なのに、プニプニと柔らかそうだ。万事休すだ!
困ったおれは、箱を眺めてみた。使用期限なるものが、書いてあった。
おお!おれの救世主が、そこにいた!
3か月前に、期限が切れている。
おれは、オスカルに告げた。
期限切れだ。
すると、オスカルは、箱を見つめて、大抵の薬は、期限切れでも、大丈夫なのだ。だが、腹が悪いのに、飲んで何かあったら大変だ。やめておこう。その代わり、昼抜きだからな!
普通に笑ったのだろうが、おれには分かった。少し引きつっていた。
そして、妻は、正露丸をゴミ箱に投げ捨てた。が、入らなかった。
オスカルのコントロールは抜群だ!それを外すとは、やはり、ただ事ではない。
今度は、オスカルは、クイックルワイパーを出してきて、フローリングの床の掃除を始めた。大儀そうである。おれがやるから、座っていろ。たまには、楽をするのもいいものだ。そう告げた。
すると、普段はこう言った事を決して譲らない妻が、素直にソファーに落ち着いた。
やはり、変だ。
昼になると、腹をすかせた子ども達も帰ってきた。
おれは、昼抜きだが、一応食卓に着いた。
オスカルが、ピーの時は、水分を取った方が良いと、お茶を淹れてくれた。
とても、甘く、美味しかった。
また、妙な物を持って来られたら、大変だ。
だが、今、治ってしまったら、半休と言う事にして、出勤しろ!と言われてしまう。
もう少し、お友達と仲良くする事にした。
オスカルは、いつ用意したのか、ピラフを用意していた。
奥さま始め、子ども二人に、ゆっくり、噛んで食べろよ!と笑う顔が、やはり引きつっていた。
オスカル自身は、食欲がないからと、少なめに食べていた。
絶対変だ。おれは確信した。
だが、何が変なのか、分からなかった。
後片付けはおれがやろう。と言い出すと、やはり、素直に任せてくれた。
お陰で、片づける振りをしながら、腹を満たす事も出来た(笑)
昼過ぎ、オスカルは、近所の子どもに勉強を教えると出かけて行った。出かけると言っても、我が家の前の、ベンチが並んだところだ。だからおれは、黙って見送った。
しばらくして、おれは、オスカルがどの様に教鞭をとっているのか見たくて、外に出てみた。妻は、子ども達の真ん中に座って、年齢の違う子ども達に、それぞれ説明していた。
すると、ある子どもが言った。
先生、今日は何で座っているの?
いつものように、近くに来て教えて下さった方が、分かりやすいわ。
すると、悪かった。うっかり座ってしまった。
何処が分からないのか?・・・。歩いて行ったが、いつも姿勢のいい妻が、前かがみになっていた。
他の子どもも、手を上げた。
今行くぞ!待ってろ!オスカルが、答えたが、その声に覇気がなかった。
その時、腹をさすった。
え゛・・・、おれは、目の錯覚かと思った。
が、また、さすった。
そして、今度は、本気で顔をしかめた。
予定は・・・7月中旬じゃなかったのか?
おれは、オスカルの月のモノがいつから来ないのか、確かめようとした。
だが、そんな事は、どうでも良かった。
予定は、6月だったのだ。
そして、それは、今日来ているのだ。
おれは、今度こそ、確信した。
そして、動かなければならない。
おれは、子ども達が集まっているテーブルに近づいた。
そして、オスカル先生は、急用が出来たから、今日はここまでで、終わりだ。
済まないけど、解散だ!
おれとしては、かなり強く言ったようだ。
あのオスカルが、ハッとした。
そして、不安そうにおれを見た途端、前かがみになっていたのが、崩れた。
おれが妻を抱えて寝室に向かった。すると、オスカルが、言った。
おまえも、ピーなのに、済まないな・・・。
痛い所を突かれてしまった。
しかし、これからいつまでかかるか分からない、超大事が待っている。
隠している場合ではなかった。
おれの腹痛は、嘘だ。
朝から、おまえの様子がおかしいから、仕事を休む為の口実だ。
だから、安心して、頼れ。
オスカルが、コクンとうなずいた。
寝室に連れて行って、今、何分おきか?それとも、未だ、間隔は長いのか?
これまで、オスカルの陣痛が軽いのか、それとも、耐える力を持っているのか、傍から見ると、さっぱり分からなかった。
「時計を見ていないから、分からないけど、まだだ。
結構、間隔はある。隠していて、済まなかった。
でも、今日は、是が非でも外すわけにはいかないんだ。
子どもが生まれたら・・・出かけるからな!」
馬鹿野郎!おれは、手を上げる所だった。
国王一家の命運より、オスカルの身体の方が大事だ。
「だめだ!柱に縛り付けてでも、行かせない!
おれは、本気だぞ。覚悟しておけ!」
「ふふふ・・・おまえが、本気を出すと、梃子でも動かぬ事は、知っているが・・・。
今日だけは、譲れない!フランスの運命もかかっているのだ!」
「フランスが、どうなろうと、知った事じゃない。
フランス沈没が、起これば、おれはおまえと、子ども達を担いで、どこへでも逃げていくさ!」
オスカルをベッドに寝かせると、おれは、オスカルの書棚を見た。
相変わらず、難しい本ばかりだ。ある棚に、童話、それから、女の子の育て方だの、女の子の心理、といった本があった。
なんだかんだ言っても、アリエノールのしつけを気にしているのだな。おれは、嬉しくなった。しかし、今は、そんな事を思っている場合じゃない。それらの隅に、背表紙が、こちらに向いている本を何冊か見つけた。
育児書、妊婦用の本、その中に『出産日をコントロールする』と言う本を見つけた。
ちくしょう!おれは、妻を毒づいてやりたかった。
著者は『聖✩おにいさん』胡散臭い名前だ。多分、ペンネームだろう。
そんな事より、おれが知りたい、『How to出産』が無い。
おれは、オスカルに聞いた。
「当たり前だ、そんな事は、普通、産婆さんに任せるものだ。
売っていない!」
此処で、アンドレは、やっと気づいた。産婆さんを呼びにいかなければならない。アンドレは、妻に聞いた。何処の産婆さんに診てもらっているのか?
すると、オスカルは、お前に知られたくなかったから、誰にも診てもらっていない。
アンドレは、頭の中が真っ白になった。
その時、オスカルが落ち着いた声で言った。
母上に任せれば良い。6人も生んでいるし、5人の姉君と、わたしの初産にも立ち会っている。ベテランだ。
アンドレは、やっと一息つくことが出来た。
兎に角、奥様を探してくる。まだ、大丈夫だな?
オスカルが、ニッコリとうなずいた。
ジャルママが、珍しく寝室に駆け込んできた。
そして、オスカルの手を取った。
「あゝ、オスカル。大丈夫ですか?
私が、手を握っていますから、安心しなさい」
この言葉に、オスカルもアンドレもホッとした。
アンドレが、
「奥さま、何でも必要なものを、言いつけてください。
私が全て用意します」安心した声だった。
「まあ、何を・・・。」相変わらず、おっとりしていた。
「ですから、出産に必要な物、すべてです。」
アンドレは、少しイラっとした。
「そんな事、私、知らないわ」
ジャルママは、何をこの娘婿は言っているのかしら。と思った。
「母上、母上は、わたしを最後に、6人の子供を生んで、姉君はじめ、わたしまで6人の初産にも立ち会っているのですよね!ご存知ないとは、言わせませんぞ」
「そうよ、立ち会っているわ。こうして、手を握って励まして、一緒に頑張ったわ。貴女も覚えているでしょう!」
オスカルは、思い出した。プチの時、ばあやが走り回って、侍女達に指図を出していた。アンドレは、わたしの額の汗を吹き、キンキンに冷えた水を持ってきてくれ、あれやこれやと、思いつく限りの事をしてくれた。
その反対側では、母上がただ、手を握っていた。
オスカルは、天を仰いだ。
そして、思案した。
そして、准将の顔になった。
そんなオスカルの、変化をアンドレは、見守っていた。
そして、
「オスカル、何が必要か?
言ってくれ、準備する。
そらから、いざと言うときは、どうしたらいいか、今のうちに伝えてくれ!」
「全て、この身体が覚えている。
おまえが、取り上げるのだ。
今、話してもタイミングが、わからないだろう。
その時に、指示する。おまえなら、出来るはずだ。
母上、タイミングを見計らって、産湯を沸かして下さい」
そう言うと、オスカルは、ふーっと息を吐いた。
するとジャルママが、
「あら、そばで手を握っていなくていいの?
その方が、心強いでしょ?」
「母上!手を握られようと、どうしようと、辛いのは同じなのです。
わたしが、合図したら、大きな鍋に湯を沸かしてください」
オスカルは、イライラして言った。
が、さらに、ジャルママは、
「妊婦さんが、そんなにイライラしては、良くないわ。ゆったりしなさい」
なんて、言ったものだから、
「下にいって、相応しい鍋を探していてください!」
ジャルジェ准将が、怒鳴った。
ジャルママは、またまた、おっとりと、
「オスカル、頑張ってね」そう言って、ドアにゆっくりと向かった。
オスカルは、枕を投げつけたかったが、出来なかった。
「オスカル、必要なものは?」
「全てチェストの一番下に、入っている」
アンドレは、言われたところへ駆け寄った。ガーゼがたくさん、産着もあった、それもいつの間に作ったのか、手作りだった。その他諸々入っていたが、どれをどう、使ったらいいのかさっぱり分からなかった。
取り敢えず、全てを持って、空いている方のベッドに置いた。
「指示してくれ」
「あゝ・・・。」
オスカルが、てきぱきと指示する。
アンドレも言われた通り、素早く用意する。
その時、オスカルが胸元に手をやった。何かを探していた。
無い・・・。どうしたんだろう?いつも身に着けていたはずなのに・・・。
オスカルの様子を見て、アンドレは、もしかして・・・メダイ・・・か?
ふふふ・・・おまえらしくないな、その様な物に頼るとは・・・。
アンドレが、惚けて言った。
プチの時も、アリエノールの時も、身に着けていた。
だから、今度も、身に着けていたいのに・・・ないのだ。
いつ、どこで失くしたのだろう・・・。
すると、アンドレがチェストから、小さな箱を持って来て、
「これだろう?アラスでの修行後、シャワーを浴びた時、忘れていった。
その内思い出すだろうと、持っていた。
ほら、首を少し上げられるか?着けてやる」
オスカルは、バツの悪い顔をしていた。
すまない、この様に大事な物を、置き忘れて、その上忘れていたなんて・・・。
マジで悪そうだった。
そして、思った。あの時、ジェローデルが鎖骨の近くに口付けが出来たのは、これがなかったからだ。これは、本当にわたしを守るものだったのだな。アンドレ、済まなかった。
アンドレが、まだ、オスカルに余裕があるとみて、おまえ、鎖骨の下・・・虫に刺されていただろう?まだ、赤いぞ!始めは、ひっかいたのかと思ったのだが・・・。最近、それが、赤い薔薇に見えてきた。不思議だなぁ!
オスカルは、出産と違う汗が流れてきた。確か、しばらくすると、消えると言っていた。あの野郎!今度会ったら、十字架を、額に張り付けてやる。
そう思ったが、段々、その余裕も無くなってきた。
オスカルの額から汗が噴き出てきた。水を持ってくる。アンドレは、階下にプチのように、手すりを滑り降りた。ポーズは、しなかった。額を冷やす水と、飲み水を用意して、戻ろうとした。しかし、胸騒ぎがして、キッチンを覗いた。
案の定、ジャルママが鍋を並べて、突っ立っていた。
ああ、アンドレ、このお鍋がいいかしら・・・。寸胴鍋を見せて言った。
怒髪天!
アンドレは、金ダライを渡して、これにお湯を入れて来てください。
頃合いは、こちらから、お知らせします。
その頃、2階では・・・。
子ども達が、そっと寝室のドアを開けて覗いていた。
プチが、母さん病気なの?そっと聞いた。
オスカルが、子ども達を枕元に呼んで言った。
ふふふ・・・病気ではない。おまえ達の弟か妹が、生まれるんだよ。
オスカルが、顔をしかめながら、優しく言った。
でも、ママン苦しそう。アリエノールちゃんのアンジュちゃん貸してあげる。
貸すものが無いプチは、パンパンに膨らんでいるオスカルのお腹にキスした。
アンドレが、戻って来ると、下に行ってろ!
生まれたら知らせるから、大人しく遊んでいろよ。
追い出してしまった。
オスカルは、荒い息をしながらも、アンドレに指示を出している。アンドレは、まるでジャルジェ准将から命令を受けている気分だったし、実際そうだった。
そこへ又、ジャルママが様子を見に来た。が、アンドレは、今度は、今のうちに、少し軽くてオスカルの好きなものを食べさせたいです。何か作って来てくださいますか?頼んでみた。
最近は、料理もかなり覚えて、簡単な食べやすく、胃に優しいもの位作れるはずだ。そう思って、お願いした。
ジャルママは、喜んで出て行った。
しばらくすると、下から匂いがしてきた。アンドレもオスカルも、嫌な予感がしてきた。やがて、ジャルママが、意気揚々と入って来た。トレーの上には、ビッグサイズのステーキと、ワイングラスが2個載っていて。そして、片手にワインの瓶を持っている。
オスカルが、反射的に、タオルで口と鼻を押さえた。
「あら、オスカル、どうしたのですか?いつも、頬張って食べていたじゃないの。これを食べて、力を付けて頂戴ね。それから、リラックスできるように、ワインも持って来たから、少し飲むといいわ」
アンドレは、思いっ切り、プッツンした。
ジャルママは、訳が分からず退散した。
オスカルが、窓を開けてくれ。匂いを追い出してくれ。
なんで今頃、悪阻にならないといけないのか?
そう思いながら、アンドレに頼んだ。
アンドレが、何か食べやすいものでも、持ってくるか?改めて聞いた。
オスカルは、何もいらない。だが、アンドレは、旬のイチゴが冷えている。あれなら、口当たりがいいだろう。すると、オスカルが頷いた。
アンドレが、キッチンに行って、イチゴのへたを取っていると、ダイニングテーブルにいる子ども達が話していた。
アリエノールが、どうやって、ママンのお腹の中に、赤ちゃんが入るの?すると、プチが、父さんと母さんが、仲がいいと神様が入れてくれるんだ!自慢気に言った。
すると、ジャルママが、あら違うわよ。あなた達、おしべとめしべを知っているでしょ?と語りだしたので、アンドレにしては珍しく、ジャルママを睨んだ。ジャルママもアンドレの剣幕に、口を閉じた。
そんな訳で、子ども達だけで遊ぶよう言った。外で、友達と遊んでもいいぞ、とも加えた。但し、木から落ちるなよ!今、ケガ人が出たら、大混乱だ。アンドレは思った。
アンドレは、もっと食べやすいようイチゴを半分に切ろうかと思ったが、その場にいるのにいたたまれなくて、駆け上がって行った。
オスカルが、苦しそうにする間隔が短くなってきた。
アンドレは、まだ、おれにはする事は無いのか?
今は、手を握っていてくれ!オスカルが、言った。
その時が来たら、分かる。二人も生んでいるのだ。
だいたいの感覚は、体内時計でわかる。
おまえは、わたしの指示に従ってくれ。
そして、いざという時は、どうなっているのか、知らせてくれ、それに合わせて指示を出す。
そして時間が過ぎ、夕方になった。
オスカルはともかく、アンドレも何故か、額に汗をかいていた。
オスカルが、苦しそうに言った。
アンドレ・・・何か、握るものが欲しい。
言いながら、オスカルは、手短にあるもの・・・。
銃を枕の下から出して、引き金に人差し指をあてた。
アンドレが、慌てて、おいおい!それは止めてくれ!
すると、オスカルが、
では、おまえの手を貸せ!
アンドレが、
おれの手は、塞がっている。
じゃあ、足を貸せ!
おれの足は、そんなに長くない!
ぬかせ!
それだけ言えれば、大丈夫だ!アンドレが、言った。
アリエノールのアンジュちゃんを握っていろ!人形を渡した。
オスカルは、そこが人形の何処であるかも分からずに、握って、ひねった。
そして言った。
アンドレ、行くぞ!用意はいいか!
頭が出たぞ!アンドレが言った。
オスカルが、赤ん坊を落とすなよ!
その途端、大きな泣き声が響いた。
アンドレが、ホッとした。
生まれてこのかた、こんなに緊張して、ホッとしたのは初めてだった。
赤ん坊を抱きながら、オスカルの様子を見た。
オスカルは、嬉しそうに笑っていた。
そして、言った。
どっちだ?まさか、女じゃないだろうな!?
それより、赤ん坊に父親からの、キッスをしてあげてくれ!
すると、アンドレが、おれは、男とキッスをする趣味はない!
そう言って、笑った。
オスカルも、男か・・・まあ、どちらでもいいのだ!
そう言って、笑った。
そして、オスカルが真剣に聞いた。
尻は青くないよな?
アンドレは、何の事だか分からなかった。
しかし、アッと思い出した。
大丈夫だ、今は赤いが、その内に真っ白になる。答えた。
オスカルは、アランに会うたびに、尻を見せろと言っているのに、逃げてしまう。
今度こそ、見てやるからな!
楽しそうにいつも、言っていた。
産湯に入れられるか?オスカルが、アンドレに聞いた。
ああ、それなら二人の時見ていた。大丈夫だ。アンドレは、自信満々だった。
アンドレは、ジャルママが置いた、金だらいに近づき、ガーゼを濡らそうとして、ウワッ~~チと声を上げた。
オスカルが、心配そうに見て、どうしんだ?
冷めてしまったか?
熱湯だ!アンドレが、語気を強めて言った。
2人が、ジャルママを見た。
「だって・・・お湯を沸かしてくれって言われたのだもの・・・。
それに、たらいが大きくて、ガスコンロにかけるのが、大変だったのよ」両方の手に、ミトンをして、(片方は、模様が内側に向いていた)ジャルママが言う。
アンドレは、たらいを火にかけてくれ、とは言っていないぞ。
頭の中も、煮えたぎっていた。
オスカルの天然は、母譲りだとは、それ以来誰も思わなくなった。
アンドレは、オスカルの胸の上に赤ん坊を抱かせると。
今日2度目の、階段すべり台をした。さすがにポーズは、決めなかった。
そして、水を入れた洗面器と、マグカップを持ってきて、たらいから、ほんの少し熱湯を入れた。
こうして、オスカルとアンドレの、出産騒動は、終わった。
ジャルママも、働いた甲斐があったと、ホッとしていたのを誰も知らなかった。
子ども達が入って来た。
しかし、外で遊んでドロドロだったので、アンドレに追い出され、それぞれ着替えさせられた。
やっと、こざっぱりした2人は、弟と対面した。
まあ!真っ赤なのね。うっとりしながら、アリエノールが言う。
だから、赤ちゃんだ。オスカルが答えた。
僕の、子分にするんだ!
名前は?なんて呼ぶの?
アンドレが、答えた。
フランソワ・ド・ジャルジェ・グランディエ。
そして、この子の子孫はずっと、ド・ジャルジェの名前を受け継いでいくのだ。
オスカルが、何か言おうとした。
オスカルもこの名を初めて聞いたのだ。
ずっと、バタバタしていて、無事生まれた事にホッとして、名前の事などすっ飛んでいた。
以前から、今度の子の名前は、アンドレが決めると話していた。
オスカルは、名前を繰り返して、呼んでみた、心の中で・・・。
アンドレは、頭をカキカキ、『ド・ジャルジェ』ではなく、『レニエ』も考えたんだけど、ジャルジェ家が残った方が良いと思ったんだ。
しかし、まだ、オスカルは無言だった。
アンドレが、マズッたかな~と、不安になりかけた頃、オスカルが、
「いい名だ。ありがとう!アンドレ」嬉しそうに口にした。
アリエノールが、空いている方のベッドに寝転がって、うふふと言いながら、フランソワを見ていた。そして、人形を見つけると、
「あ~~~~、ママン、アンジュちゃんのお手手、
ぐにゅぐにゅになってる~~
どうして~~~~」いつものように、叫んだ。
どうやらオスカルは、丁度いい太さの腕を握って、ひねっていたようだ。
プチが、いいなぁ!母さんも、フランソワだよね。でも、誰もそう呼ばないから、この子は『フランソワ』なんだ!
僕だけ、名前で呼ばれないんだ!かなり、いじけていた。
オスカルが、アンドレと相談して、おまえの事も『アンドレ』と呼ぶ事にした。アラスでも、パパアンドレ達3人が『アンドレ』と呼ばれていたけど、ちゃんとしたアンドレが出て来ていた。
わたし達も、区別できるだろう。
オスカルの枕元に、しゃがみこんでいたアンドレが、飛び上がって喜んだ。
オスカルが、アンドレに時間を聞いた。
8時頃だと告げると、では、2時間眠る。
そうしたら、出掛ける。きっぱりと言った。
では、ロープを用意するからな、覚悟しろ!
アンドレが、強気に言った。
頼むから、行かせてくれ!
オスカルが、珍しく懇願した。
しかしアンドレは、さっきから言っているように、王室ご一家の命運より、おれには、おまえ一人が大事なんだ。厳しく、でも、妻の体を気遣っているのが分かった。
だいたい、この時期に生まれるのを黙っていた罪もある。
今日は、大人しく寝ていてくれ。
アンドレも、懇願した。
では、毎日・・・戻られるまで、情報を集めて来てくれ。
そうしたら、大人しくしている。
3階にベビーベッドがある。
持って来て寝かせてやってくれ。
オスカルが言った。
そこまで用意していて、なぜ黙っていたんだ!
気が付かなかった自分を、とんま、そう呼び、この責任感が強く、しっかり者の妻を、それでも、愛していると思った。
こうして、グランディエ家は、幸せに満ち満ちていた。
一方で、チュイルリー宮では、まだ平常通り動いていたが、
当事者達は、胸の鼓動が大きくなるのを感じていた。
つづく
スポンサードリンク